それは、人生に一度あるかないかの大事件。
一人の少女の存在で、彼らの世界はがらりと変わってしまった。

だんだんと日射しも強くなり、初夏に移り変わった6月上旬。
はその日もいつもと変わりなく平凡な一日を過ごすつもりだった。
朝のホームルームも終わり一時間目の用意をしていると、廊下の方から黄色い悲鳴が聞こえてきた。友達に若干促されながら窓から廊下を静かに覗き込む。沢山の女子生徒とちらほらといる男子生徒の大群で中心にあるものは何も見えなかった。些か好奇心旺盛なの友人はどうにかして見ようと挑戦していたがのきっと犬か何かが入ってきたんだよ、と言う一言に若干腑に落ちない様子で壁に寄りかかった。
先ほどの用意の続きをしようと席に戻りかけたとき、黄色い悲鳴がこっちに近づいてきたのがわかった。さすがに気になったは通り過ぎるところが見れたらいいな、と考えながら廊下の方を見つめた。当の本人は通り過ぎるどころか、教室の中に入り込んできたが。てっきり犬だと思っていたは登場した人物に驚きを隠せなかった。鮮やかな赤いネクタイにチェックのズボンを穿き、胸ポケットには学校特有のエンブレムがプリントされていた。
も思わず見とれてしまう程だったが、じろじろと見るのは趣味が悪いかな、とすぐに視線を逸らした。しかし男の方が視線を逸らさず、を品定めするように上から下まですっと見た。そしての居る場所まで足を進め、視線を逸らしたままのの顔に、自身の顔をずいっと近づけた。

「おい、お前名前は何だ?」
「えっ、私ですか……?です」
「ほぅ……部活は?」
「き、帰宅部です……」

声を掛けられると思っていなかったは男の顔を驚いたように見返し、少し躊躇してから言葉を口に出した。は男にまじまじと顔を見られ、恥ずかしさの余り俯いてしまった。男は一瞬ニヤリと笑うと、の顎に手を添え、自分の方を向くように促した。は驚きの余り声を上げそうになったが失礼に当たると思い、悲鳴を飲み込んだ。男はその様子に小さく笑みを零し更に顔を近づけた。

「お前、恋人はいるか?」
「い、いません……」
「そうか。好きな人はいるのか?」
「……いえ、それもいません」

は少し後ろに下がって顔を遠ざけながら答えた。それもそのはず男はとても端麗な顔立ちでこちらを覗き込んでいて、それを間近で見つめ返すというのはにとって難しいものであった。男はから少しはなれてもう一度上から下にかけて見た。は条件反射で直立不動の形になり、ちらり、と男の方を見た。

「合格……だな」
「え?」
「話は後だ。時間が無い、行くぞ」
「え、えぇ?!」

男はの腕を強めに引っ張り勢いよく廊下を駆け出した。それまで二人のやり取りを見ていた外野もそんなやりとりに唖然とし、少し遅れて騒ぎ出した。は階段を駆け下りている時も状況が判断できず、ただ頭にハテナマークを浮かばせていた。そんな様子を見て男は喉でククッと小さく笑った。







「あの……この車、どこに向かってるんでしょうか……?」
「アーン?そんなの俺様を見た時点で分かるだろうが」
「えーっと……ごめんなさい、私あんまりテレビ見ないんで……」
「は?テメエ何言ってんだ」
「え、だから……私テレビ見ないんでモデルさんとか俳優さんの事あまり知らないんです……」
「ほぅ……それで?」

男はさもおかしいと言うように顔を歪ませた。手の甲で口元を押さえ、笑いを我慢しながらに続きを言うよう促す。

「あの……あなたのこと知らないんです。ごめんなさい」
「そうか。まあ今はその方が好都合だがな」
「え?……あの」
「アーン?何だ」
「あの、あなたは……モデルさんですか?それとも俳優さんですか?」

男はついに我慢しきれずに豪快に腹を抱えて笑った。前にいた運転手も、今までにこんなに笑っているのを見たことが無い、と言うような顔でバックミラーを静かに見返した。

「?私何かおかしい事言いましたか?」
「……ククッ、いや何でもない。その様子じゃあ立海大テニス部の事にも疎そうだな」
「えっと……、少しは知ってるんですが……。あまり、詳しくないです」
「だろうな。……まあ今回に関しては都合がいいな」

先ほどから男が呟いている「都合」という言葉に首をかしげながら、何故テニス部の事を聞くのだろう、と頭を捻らせた。するとその様子に気付いたのか、の方に体をむけ腕をくみなおし、言葉を続けた。

「俺様は跡部景吾だ。氷帝テニス部の部長をしている」
「氷帝……って!もしかして氷帝学園ですか?!」
「流石のお前もそれは知っていたようだな」
「は、はい。友達が話しているのを何度か聞いたことがあります!テニス部が特に凄いところなんですよね」
「フン、まあそんなところだ」
「で、でもそんなすごい人が私に何の用で……?」
「ああ、まだ話してなかったな。今日からお前は立海大の運営委員だ」
「運営、委員……?」
「ああ、全国テニス部合同学園祭の、な」
「全国テニス部合同、学園祭……?!」

は思わず跡部の顔を見つめる。跡部は予想通りの反応だ、とでも言いたげに静かに目を瞑り鼻で笑った。の頭の中は軽くパニックに陥っていた。何故テニス部の運営委員が自分なのか、何故立海大生徒の中から自分が選ばれたのか。すべてを整理する前に跡部の一言で陽菜は更に固まった。


「ああ、まだ質問に答えてなかったな。今向かっているのは氷帝学園だ」


氷帝は東京ではなかったか、そんなことを頭の片隅で考えたがその前に考えることがありすぎてすぐにその考えは消えていった。




(初夏のとある日)