桜の花弁が満開になった春。
ドアを二回、リズミカルにノックした後、返事を待つことなく私は扉を開いた。野球部の部室の真ん中で、苦そうなコーヒーを飲みながら手元にある紙に目を走らせていた。そんな中、私の存在に気が付くと、椅子を綺麗に180度回転させて足を組んだまま私を少し見つめ、すぐに手元にある資料に視線を戻してしまった。いや、見られたら見られたで緊張してやばいけど思いっきり目をそらされるのも傷つくなあ。また、ふと監督の視線がこちらを向いたので私はへにゃり、となんとも頼りのない笑顔を監督に向けた。すると監督は紙を見つめたまま監督の左隣にある椅子を引きその真ん中を手のひらでポンポン、と叩いた。私はそんな珍しい監督の姿に思わず驚きを隠せず、なんともいえない声がでてしまった。その声が監督に聞こえたのか、一瞬含み笑いをするとまた、コーヒーをすすった。私が口を尖らせながら監督の隣にある椅子に勢いよく座ると、また監督の口の端が上に上がった。久々に見る監督の笑顔(?)に自然と私の顔も綻んだ。時計の秒針の音だけが響く静かな部屋に耐えられなくなって、私は監督に向かって口を開いた。


「監督、それって次の試合のオーダーですか?」
「ああ、二軍を出すつもりだ」
「次は二軍なんですね。……ピッチャーの欄は書かないんですか?」
「ああ…予定では降谷を使うつもりだったが少し肩を痛めていてな……。代理選手がまだ決まっていない。」
「うーん……迷いどころですね、沢村君は最近どうですか?」
「沢村か…最近はアイツ、よくやっているぞ。だがまだ技術が足りんな」
「あははっ、技術ですかー…でも素質ありますよね、沢村君」
「そうだな……まあ今回は様子見と言ったところか」
「ふふっ、活躍するかしないかの別れどころですね」
「ああ……」


会話が一段落すると監督は机の上においていたマグカップを掴み、また一口流し込んだ。そんな様子を見つめていた私の視線に気付いたのかコーヒーの入っているカップを持ち上げ「コーヒー、入れるか」と尋ねられた。私は折角監督が気を利かせてくれたのに……と少し後悔しつつも首を左右に振った。


「私、コーヒー飲めないんですよ」
「そうなのか。珍しいな」
「あ、それ御幸君にも言われましたよー」
「ふ、アイツらしいな」
「ですよね……御幸君たちは、元気です、か?」
「………ああ」
「そ、っか。よ、かった……。みん、な元気なんですね」
「……ああ。……、泣くな」
「だっ、だってぇ」
「お前が泣くと……どうしていいのかわからなくなる」


監督が困ったように笑って私の頭にそっと手を置いた。ああ、安心する。やっぱり、あたしは監督の事が好き、だ。監督が私の事を生徒以上に見れなくても、私に興味がなくても、私は監督が大好きだ。監督の肩にこてん、と頭を預けそのまま寝てしまいたかった。でもいつまでもそうしているわけにもいかないので、私は泣き笑いの顔になりながらも監督から少し体を離した。


「へへっ、ごめんなさい……」
「いや、俺こそ悪い」
「卒業しても監督に迷惑掛けてちゃ…駄目ですよね」


私が力なく笑うと視界が急に暗くなった。違う、すぐ目の前に監督の顔がある。監督の顔はすぐに離れてコーヒーをまた一口飲んで溜息をついた。


「……すまなかった」
「なんで、なんで謝るんですか?私、私すっごく嬉しかった・・・!」
「……俺はもうオジさんだぞ」
「そんなこと関係ないです」
「……お前の先生だったんだぞ」
「今は違うじゃないですか!」
「……後悔、しないか?」
「するわけ、ないです」


私がぐしゃぐしゃの泣き笑顔でそういうと監督がすごく優しい笑顔を返してくれた。つられて私も笑顔になる。口の中にはさっきのブラックコーヒーの味が広がっていて、少し苦い感じがした。それよりも、かんとくにキスされた喜びのほうが勝って苦さなんて、全然わからなくなっていた。

初めてのキスは甘酸っぱいレモン味でも、イチゴ味でもなかった。それでも、私には少し苦めのブラックコーヒーがとても優しい味に感じられた。きっと一生忘れられない、監督と私の、キスの味。監督が私に向かって微笑んだから、私も笑おうと思ったんだけど思うように笑えなくて、嬉しすぎて涙が止まらなくて、ぼろぼろ大粒の涙を零しながら満面の笑みを監督に向けた。監督はちょっと困ったように笑ってたけど、その困ってる理由は私なんだろうな、今は私の事で頭いっぱいかな?そうだったらいいな、だったらもうちょっとだけ、泣いたままでもいいかな、なんて思ったり





あと少しだけ





泣いてもいいですか





(すきですだいすきあいしてる)(ああ、おれもだ)